絵を描くとは何か、考えてみた

 

 

私は絵を描く時

例えばこの人のこの目の形が好きだとかいう想いからスタートして絵を描き始めることが多いが、書いているときは何をどうしようと決して考えずに、勢いと直感と運とに身を任せている。

 

 

集中のゾーンに入る時、

その想いが自分を突き動かす

集中して、その世界に乗っかるだけで

その絵に深みが出る

俗に言ういい絵が出来上がってくる

 

 

私はもともと絵が下手だった。でもあるとき嵐の大野くんが

『そのものをしっかり観察すれば誰だって絵は描けるようになる』

というようなことを言っていて、それからは不思議と描けるようになって来た。絵の世界に入り込むことができるようになったという意味だ。

決して自分の性質、俗にいう上手い下手(絵のタッチ)が根本的に変わったわけではない

(絵を描くというのは

対象物に対する想いがあり、それを絵にしようとする行為だ。

集中した後にオリジナルの絵が目の前に広がっていれば、それはもう立派な作品であると私は考える)

(私の場合、上手い絵が百発百中で、描けるわけではないから、自分を肯定するためにこう考えるようになったのかもしれないが、自分の少しの不器用さは、

絵は上手い人が描くべきだという先入観を持たずに考えるために与えられた試練だとも考えている)

 

 

 

 

 

よく画家の絵を見る時

どんな意味が込められているのか

考えて鑑賞する人がいる

 

私はずっと、絵には意味が含まれていないといけないと考えていたが、

自分では説明はできなくても、いい絵ができた時点で、そこに意味は存在している。意識していないだけで、見えない想い、気づいていないだけで、何かは必ずあると思うようになって来た。

時として、その曖昧さが天才だーなどと言う感想につながる。

説明のつかないものに対して、人間はそのような反応を取ることが多いように思う

 

実際のところ、絵に含まれた意味を答えられる人もいるが、後付けの言葉で説明する人もいる

本人の意識の仕方は違くても、

実はつながっている、どちらも自分の世界観やら、思いやものに対する感じ方やら、が

筆に乗っかって絵が完成している

 

その思いたちが潜在意識にあるか、

顕在意識にあるのかの違いだ。

意味を考えながら描く人もいれば、

”意味付け”は潜在意識の中でしていて、”意味付け”の代替品として感情を使って描くやり方があると私は考える。

 

 

でもこういうことを創作活動中に考え始めたら、多分だけどうまくいかないと思う

考えると筆は動かなくなる

 

どういう風にやればいいかというと

手は動いているけど、脳みそは宙に浮かせて考えている

文を書いている時もそうだが、

話が繋がっているかどうかは後で修正するつもりで、打ち込んでいるときは、理性を忘れて隣に置いておいた方が、

自分の考えが素直に外に出て来てくれて、自分の思い描いている考えに近いものが表に出て来てくれる。

 

こういう創作のの世界を言葉にするのは難しい

今自分でも初めて言葉に起こしている。

これが正しいかも、みんながそうかもわからないが。

私は、創作中このように感じている。

 

(全ては私の感じていることを言葉にしただけで、科学的根拠はなく

単なる憶測なので、一意見として読んで見ていただけると幸いです)

 

言葉にできないものというのは時として、人に苦痛を与えます

 

自分は絵が下手くそだ、

絵が下手な人は絵を描くべきではないと先入観は捨てるべきです。

一見下手くそな絵であっても、心の目で見て、何か動くものがあれば、それは素敵なのです。認められるべきものなのです。

 

正しい崇められている人と比べて、

『結果が違う、正しくない』と

人はそれを否定して、その世界から排除しようとしますが、

本質は、目に見えるものだけが正解ではありません。

 

この世界は目に見えるものだけで支配されすぎているような気がします。

だから生きづらい人が増えたり、受け入れられない人が増えてしまっています。

 

ぜひ見た目だけでは判断しないでほしい

こうあるべき、ではなく、

自分の本能がどう反応しているかなのです。

目に見えるものだけが正解というわけではないんです。

説明のつかないことはたくさんあって、

そのことが不安につながります。

でもそんな色眼鏡を外せるようになると、みんなが自分らしく、共存できる世界ができるのではと考えます。