坊主女子の自己紹介

 

 

 

記念すべき第一回め、どうぞよろしく。

いやーなんだか映画みたいなタイトルだが、

これが自分の人生で実際に起こっていることなんだから、驚きだ。

 

 

 

自己紹介がてら、私のことを簡単に書いて見ると、

私はいわゆる優等生で真面目だった

 

小学生の時の話だが、

例えば、横断歩道で手を上げて渡るのは当たり前、

誰よりも率先して、「静かに〜」と声をあげて先生が言う規範生を演じていた。当時は、洗脳されていたと言う方が正しいかもしれない。先生の言うことが私を作り上げたと言っても過言ではないくらいだ。

現に自分自身を説明しようとすると、

自分の考えや、先生に対する反抗心がなかったことに、ゾッとする時がある。

私は先生の元滅いい子ではあったが、その代わり、自分の好きなものは全くなかった。

言われたことをやり、自分の世界というよりは、周りが認めてくれるための世界だった。

 

 

そんな私がつまずいたのは高二の冬だった。

姉が、アメリカへ留学し、母はアメリカ生まれで空港勤務だったため、

私も流れで、アメリカに憧れた、と言って二年間大学受験をしていたのに急に路線変更した。

そしたら自分でも説明がつかないくらい、人生の歯車が狂った。

学校には不登校になり、引きこもった。

 

ここまででわかるように私は人の意見や、正しさ、ルール、評価に左右されやすく、

自分が確立されていない。海外留学も、自分の動機がはっきりしていなかったから、頓挫した。

 

そんな自分がないことに絶望した私のストレスの矢面に立ったのが母だった。

 

 

高二で不登校になってから、ストレスの限界に達すると髪の毛を切ってしまう癖がついた。

いわゆる自傷行為だ。

不登校になって孤独になると、母からとにかく認められたかった。

休んでてもいい、今までお疲れ様、辛かったね。

そんな風に言われたかった。

私は理想を母に強要していたのかもしれないが、

母に懇願した。お願いだから、嘘でもいいから、『辛かったね』と言ってくれと。

そしたら母は。『私だったら落ち込んだ時にそうやって言われたらもっと落ち込んで頑張れなくなるから言えない。』といわれた。

 

わたし自身こうだと決めたら思い込む性格が強い。だからそんな子を産んだ母もやはりそんな面があった。

 

こうやって文章にすると、俯瞰して観れるが、当時の私にはその言葉がきつかった。

だからいろんな言葉を母にぶつけて、話し合いになった時に母が何か喋ろうとしても、それを塞ぐように、自分の言葉で被せた。

自分を守ろうとしていた。

傷つくなら話さなければいいのにと思うかもしれにが、私には、話せる相手が母しかいなく、

いつかはわかってくれるということを信じ続けていた。

 

でもそんな風に受け止めてくれない人に体当たりし続けると、だんだんと、限界が近づいてきた。母に見えるように、見せつけるように髪を切るようになった。

こんだけ傷ついているんだってわかって欲しかった。言葉にして伝わらないのであれば、とハサミを握った。

母は見ているだけだった。止めようとするときもあるが、

『ハサミで髪を切る自分を否定する』だけで、

その行為によってどんだけ私の心がえぐられているかには気づいていないように見えた。

 

 

私は今坊主だ。

私は女子だが、髪の毛というのはセクシュアリティーを表すと言われているくらい、

人の考え方行動に大きな影響を与える。