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HSPの生き方を考えてみた
hsp(敏感すぎる人)はどのように生きていったらいいんだろう
このことを見つけたのは三年くらい前。最近はyoutubeにも関連動画がたくさん上がって来て、言葉が普及して来たことに喜びを覚えると同時に、
それならばhspが生きやすくなるための変化を起こしたいという義務感も湧いて来た。
生きづらいと不満を言って立ち止まり、ただ助けを求めるだけではなくて、
自分らしく生きられる場所を自らの力で築いて生きたいと思うようになった。
この言葉を見つけた当初はすごく嬉しかった。
自分の性質、抱えていたものに当てはまりすぎて、やっと理解される、自分を見つけたと、
だけど、しれば知るうちに自分がHSPであるという事実だけが残り、
そのあとどうしたらいいのか、具体的に生きづらさが変わるわけではなかったし、
自分の場合、HSPによって苦しんでいるということを忘れて、自分の敏感さを責めてしまうことを繰り返していた。
敏感すぎる人はとにかく空気を読む。怒らせたくないし、日々を平和に過ごしたいと思っている。わがままさを表に出すことはなかなか難しい。
そんなhspである私の、人との関わり方は特殊だ、
この人と仲良くろうと思ってなるよりは、じんわりと空気感を照らし合わせて、
馴染めそうだったらそっと隣に行ってみる、話してみるという感覚だ。
最初は比較的社交的に話せる。
相手のことを知らない状態だから、ゼロから自分のことを話したりできるから
”社交的”だと思われやすい。
しかし2回目以降は、なぜか人見知りみたいによそよそしくなる気がする。
相手と過ごす間、無意識のうちに相手の顔色や自分に対する反応をとにかく観察するようにある。そうするとだんだん空気を読むこと必死すぎて、自分の空気感が薄れていて、相手色に染まっていこうとする、怒らせないために、会話を盛り上げるために、相手を傷つけないために(一体何に怯えているんだろうか笑)
そうして初対面の時ににかろうじて存在していた自分の感情は、いつからかベールに包まれ、相手の顔色の支配下に潜り込んでしまう。相手さえ笑顔であればそれでいいという思考だ。
本質的にいうと、自分の心にもこの行為は不健康だと思うし、
相手からしてもつまんないし、
空気感としても、きっとどこかで緊張感があるのだろう。
だからなのか私には、友達はいるが、
心の中では、自分自身でいられる話し相手、友達はいないと感じる時がある
この人との関わり方、顔色を伺いすぎることが自分を苦しめている時点で、
変わるべき時が来ていると感じる。
hspを語る人の中で、自分を理解してほしいという意見もあるが、
相手に理解してもらう前に、このhspの世界観をもう少し具体的に、考えを深めていくべきだと思う。そして、hspの世界と非hspの世界、どちらが正解ということでもないわけだから、
頭をクリアにして、人間のあるべき姿から、考え直すべき時が来たのだと私は思う。
信じるものは正しさではない。
常識や当たり前でもない。
今の人類は正解の形ではなく進化の過程の姿であって、
最終形態ではないのだ。
変化を恐れてはならない
あるべき姿を追い求め続けるのだ。
どこかに、当たり前だと思っている概念やら当たり前が存在しているからこの生きづらさがある。
常識にとらわれることなく、何が私をそんなに脅迫しているのか、
吐き出して、吐き出して、見つけて生きたい。
ぜひそんな姿を見守ってほしいと思う。
そして、読んでくれる人の力も貸してほしい。