自分を許して、前に進む

 

 

周りから言われる太ったね

 

って結構、心をむしばむよね。

 

案外痩せてないねとか、

人に言われた言葉って知らないうちに記憶に刷り込まれて、

自分の体型を見るたび

痩せなきゃ痩せなきゃって自分を責めてた。

 

髪の毛もそうだった。

癖で、最初に頭頂部からハサミを入れる癖があって、

いつもてっぺんだけ極端に短くて、

でもそれに合わせて周りの髪も短くする勇気はなかったから、

いつも歪な髪型をしていた。

 

写真で自分を見て気づくことが多かった、

あ、髪型デコボコしてるって、、、泣

視覚から入った映像記憶ってキツくて、

これもまた早く伸びろ伸びろ、

伸びるまで我慢だって思ってた。

 

 

体型にしても、髪型にしても、どちらもないものねだりだった

もっと痩せれば、

もっと髪が伸びれば

 

でもそうやって自分を否定して、暗くなって、

結局どうなったかっていうと

坊主になったし、2年でmax体重を2キロも更新してしまった。

 

 

 

坊主になって、慰めが欲しくて、仲間はいるって感じたくて、

バズカット(坊主)、女子

で調べた。

 

そしたら、私からしたら衝撃なことに、

その人たちは坊主であることに誇りを持っていた。

 

髪の毛イコールセクシュアリティーの象徴であるからこそ、

脱ぎ捨てて自由になろう

堂々としてれば、瞳は輝き出す

みたいなことが書かれていた。

 

 

私はこの文章にハッとした。自分は自分のことを隠すことだけを考えていた。

けれどそんな風に、無い物ねだりをすればするほど自分は腐っていくし、

時間はただすぎていくだけ。

 

痩せなければいけない、髪が伸びるまで待たなければいけないのではなく、

どんな自分自身でも、その時の自分を受け入れて許してあげる。

結果って、意識しすぎると、離れていくけど、

 

自分に対して、許しとか、満足とか広い心でいるからこそ

自然と結果はついてくる。心の余裕がないとなかなか頑張れないもんね。

自分で輝きをつくりだす

 

 

絶対に輝いてみせる!!!

坊主になって

 

ただただ心が張り裂けそう

自分を受け入れられなくて、心が苦しくなる

 

性同一障害のような感じ、

自分は女であるはずなのに、

そうではない、何かわからない見た目をした自分自身。

 

周りの反応だって、ショートカット、坊主ってだけで、

ボーイッシュな人という印象になる。

 

正直自分自身でもそうなのではないかと錯覚して来てしまうくらい。

 

 

髪の毛はそれくらい大事

もう絶対に切らないと思うけれども

その時が来たら、切ってしまう

髪の毛を傷つけて自分自身を傷つけない限り、

絶望と空っぽの叫び声と鳴き声の地獄からは抜け出せない。

 

本当にはり裂かれるんだ。

 

でもいつまで続くんだろう。

正直、髪の毛伸ばして、女の子になりたい。

今は自分のセクシュアリティーすらわからないから、

恋は

私の今の世界にはない。

 

  絵を描くとは何か、考えてみた

 

 

私は絵を描く時

例えばこの人のこの目の形が好きだとかいう想いからスタートして絵を描き始めることが多いが、書いているときは何をどうしようと決して考えずに、勢いと直感と運とに身を任せている。

 

 

集中のゾーンに入る時、

その想いが自分を突き動かす

集中して、その世界に乗っかるだけで

その絵に深みが出る

俗に言ういい絵が出来上がってくる

 

 

私はもともと絵が下手だった。でもあるとき嵐の大野くんが

『そのものをしっかり観察すれば誰だって絵は描けるようになる』

というようなことを言っていて、それからは不思議と描けるようになって来た。絵の世界に入り込むことができるようになったという意味だ。

決して自分の性質、俗にいう上手い下手(絵のタッチ)が根本的に変わったわけではない

(絵を描くというのは

対象物に対する想いがあり、それを絵にしようとする行為だ。

集中した後にオリジナルの絵が目の前に広がっていれば、それはもう立派な作品であると私は考える)

(私の場合、上手い絵が百発百中で、描けるわけではないから、自分を肯定するためにこう考えるようになったのかもしれないが、自分の少しの不器用さは、

絵は上手い人が描くべきだという先入観を持たずに考えるために与えられた試練だとも考えている)

 

 

 

 

 

よく画家の絵を見る時

どんな意味が込められているのか

考えて鑑賞する人がいる

 

私はずっと、絵には意味が含まれていないといけないと考えていたが、

自分では説明はできなくても、いい絵ができた時点で、そこに意味は存在している。意識していないだけで、見えない想い、気づいていないだけで、何かは必ずあると思うようになって来た。

時として、その曖昧さが天才だーなどと言う感想につながる。

説明のつかないものに対して、人間はそのような反応を取ることが多いように思う

 

実際のところ、絵に含まれた意味を答えられる人もいるが、後付けの言葉で説明する人もいる

本人の意識の仕方は違くても、

実はつながっている、どちらも自分の世界観やら、思いやものに対する感じ方やら、が

筆に乗っかって絵が完成している

 

その思いたちが潜在意識にあるか、

顕在意識にあるのかの違いだ。

意味を考えながら描く人もいれば、

”意味付け”は潜在意識の中でしていて、”意味付け”の代替品として感情を使って描くやり方があると私は考える。

 

 

でもこういうことを創作活動中に考え始めたら、多分だけどうまくいかないと思う

考えると筆は動かなくなる

 

どういう風にやればいいかというと

手は動いているけど、脳みそは宙に浮かせて考えている

文を書いている時もそうだが、

話が繋がっているかどうかは後で修正するつもりで、打ち込んでいるときは、理性を忘れて隣に置いておいた方が、

自分の考えが素直に外に出て来てくれて、自分の思い描いている考えに近いものが表に出て来てくれる。

 

こういう創作のの世界を言葉にするのは難しい

今自分でも初めて言葉に起こしている。

これが正しいかも、みんながそうかもわからないが。

私は、創作中このように感じている。

 

(全ては私の感じていることを言葉にしただけで、科学的根拠はなく

単なる憶測なので、一意見として読んで見ていただけると幸いです)

 

言葉にできないものというのは時として、人に苦痛を与えます

 

自分は絵が下手くそだ、

絵が下手な人は絵を描くべきではないと先入観は捨てるべきです。

一見下手くそな絵であっても、心の目で見て、何か動くものがあれば、それは素敵なのです。認められるべきものなのです。

 

正しい崇められている人と比べて、

『結果が違う、正しくない』と

人はそれを否定して、その世界から排除しようとしますが、

本質は、目に見えるものだけが正解ではありません。

 

この世界は目に見えるものだけで支配されすぎているような気がします。

だから生きづらい人が増えたり、受け入れられない人が増えてしまっています。

 

ぜひ見た目だけでは判断しないでほしい

こうあるべき、ではなく、

自分の本能がどう反応しているかなのです。

目に見えるものだけが正解というわけではないんです。

説明のつかないことはたくさんあって、

そのことが不安につながります。

でもそんな色眼鏡を外せるようになると、みんなが自分らしく、共存できる世界ができるのではと考えます。

 

 

 

 

      HSPの生き方を考えてみた

 

 

 

hsp(敏感すぎる人)はどのように生きていったらいいんだろう

 

このことを見つけたのは三年くらい前。最近はyoutubeにも関連動画がたくさん上がって来て、言葉が普及して来たことに喜びを覚えると同時に、

それならばhspが生きやすくなるための変化を起こしたいという義務感も湧いて来た。

生きづらいと不満を言って立ち止まり、ただ助けを求めるだけではなくて、

自分らしく生きられる場所を自らの力で築いて生きたいと思うようになった。

 

この言葉を見つけた当初はすごく嬉しかった。

自分の性質、抱えていたものに当てはまりすぎて、やっと理解される、自分を見つけたと、

だけど、しれば知るうちに自分がHSPであるという事実だけが残り、

そのあとどうしたらいいのか、具体的に生きづらさが変わるわけではなかったし、

自分の場合、HSPによって苦しんでいるということを忘れて、自分の敏感さを責めてしまうことを繰り返していた。

 

 

敏感すぎる人はとにかく空気を読む。怒らせたくないし、日々を平和に過ごしたいと思っている。わがままさを表に出すことはなかなか難しい。

 

そんなhspである私の、人との関わり方は特殊だ、

この人と仲良くろうと思ってなるよりは、じんわりと空気感を照らし合わせて、

馴染めそうだったらそっと隣に行ってみる、話してみるという感覚だ。

最初は比較的社交的に話せる。

相手のことを知らない状態だから、ゼロから自分のことを話したりできるから

”社交的”だと思われやすい。

 

しかし2回目以降は、なぜか人見知りみたいによそよそしくなる気がする。

相手と過ごす間、無意識のうちに相手の顔色や自分に対する反応をとにかく観察するようにある。そうするとだんだん空気を読むこと必死すぎて、自分の空気感が薄れていて、相手色に染まっていこうとする、怒らせないために、会話を盛り上げるために、相手を傷つけないために(一体何に怯えているんだろうか笑)

そうして初対面の時ににかろうじて存在していた自分の感情は、いつからかベールに包まれ、相手の顔色の支配下に潜り込んでしまう。相手さえ笑顔であればそれでいいという思考だ。

 

本質的にいうと、自分の心にもこの行為は不健康だと思うし、

相手からしてもつまんないし、

空気感としても、きっとどこかで緊張感があるのだろう。

 

だからなのか私には、友達はいるが、

心の中では、自分自身でいられる話し相手、友達はいないと感じる時がある

 

 

この人との関わり方、顔色を伺いすぎることが自分を苦しめている時点で、

変わるべき時が来ていると感じる。

 

 

hspを語る人の中で、自分を理解してほしいという意見もあるが、

相手に理解してもらう前に、このhspの世界観をもう少し具体的に、考えを深めていくべきだと思う。そして、hspの世界と非hspの世界、どちらが正解ということでもないわけだから、

頭をクリアにして、人間のあるべき姿から、考え直すべき時が来たのだと私は思う。

 

信じるものは正しさではない。

常識や当たり前でもない。

今の人類は正解の形ではなく進化の過程の姿であって、

最終形態ではないのだ。

変化を恐れてはならない

あるべき姿を追い求め続けるのだ。

 

 

 

 

どこかに、当たり前だと思っている概念やら当たり前が存在しているからこの生きづらさがある。

常識にとらわれることなく、何が私をそんなに脅迫しているのか、

吐き出して、吐き出して、見つけて生きたい。

 

 

 

ぜひそんな姿を見守ってほしいと思う。

そして、読んでくれる人の力も貸してほしい。

 

 

            坊主女子の自己紹介

 

 

 

記念すべき第一回め、どうぞよろしく。

いやーなんだか映画みたいなタイトルだが、

これが自分の人生で実際に起こっていることなんだから、驚きだ。

 

 

 

自己紹介がてら、私のことを簡単に書いて見ると、

私はいわゆる優等生で真面目だった

 

小学生の時の話だが、

例えば、横断歩道で手を上げて渡るのは当たり前、

誰よりも率先して、「静かに〜」と声をあげて先生が言う規範生を演じていた。当時は、洗脳されていたと言う方が正しいかもしれない。先生の言うことが私を作り上げたと言っても過言ではないくらいだ。

現に自分自身を説明しようとすると、

自分の考えや、先生に対する反抗心がなかったことに、ゾッとする時がある。

私は先生の元滅いい子ではあったが、その代わり、自分の好きなものは全くなかった。

言われたことをやり、自分の世界というよりは、周りが認めてくれるための世界だった。

 

 

そんな私がつまずいたのは高二の冬だった。

姉が、アメリカへ留学し、母はアメリカ生まれで空港勤務だったため、

私も流れで、アメリカに憧れた、と言って二年間大学受験をしていたのに急に路線変更した。

そしたら自分でも説明がつかないくらい、人生の歯車が狂った。

学校には不登校になり、引きこもった。

 

ここまででわかるように私は人の意見や、正しさ、ルール、評価に左右されやすく、

自分が確立されていない。海外留学も、自分の動機がはっきりしていなかったから、頓挫した。

 

そんな自分がないことに絶望した私のストレスの矢面に立ったのが母だった。

 

 

高二で不登校になってから、ストレスの限界に達すると髪の毛を切ってしまう癖がついた。

いわゆる自傷行為だ。

不登校になって孤独になると、母からとにかく認められたかった。

休んでてもいい、今までお疲れ様、辛かったね。

そんな風に言われたかった。

私は理想を母に強要していたのかもしれないが、

母に懇願した。お願いだから、嘘でもいいから、『辛かったね』と言ってくれと。

そしたら母は。『私だったら落ち込んだ時にそうやって言われたらもっと落ち込んで頑張れなくなるから言えない。』といわれた。

 

わたし自身こうだと決めたら思い込む性格が強い。だからそんな子を産んだ母もやはりそんな面があった。

 

こうやって文章にすると、俯瞰して観れるが、当時の私にはその言葉がきつかった。

だからいろんな言葉を母にぶつけて、話し合いになった時に母が何か喋ろうとしても、それを塞ぐように、自分の言葉で被せた。

自分を守ろうとしていた。

傷つくなら話さなければいいのにと思うかもしれにが、私には、話せる相手が母しかいなく、

いつかはわかってくれるということを信じ続けていた。

 

でもそんな風に受け止めてくれない人に体当たりし続けると、だんだんと、限界が近づいてきた。母に見えるように、見せつけるように髪を切るようになった。

こんだけ傷ついているんだってわかって欲しかった。言葉にして伝わらないのであれば、とハサミを握った。

母は見ているだけだった。止めようとするときもあるが、

『ハサミで髪を切る自分を否定する』だけで、

その行為によってどんだけ私の心がえぐられているかには気づいていないように見えた。

 

 

私は今坊主だ。

私は女子だが、髪の毛というのはセクシュアリティーを表すと言われているくらい、

人の考え方行動に大きな影響を与える。